尊い日常のために
2011年3月11日。
あれだけのことがあって、被災地から遠く離れたこの東京からも「日常」は奪われていった。
停電でまっ暗くなった新宿通りやビルの合間から覗けた星のことを覚えている。
そうやって永遠に日常は奪われていくと思われたが…ひと月もすると避難者支援やチャリティイベントの仕事がきて、元より忙しい日々が戻ってきた。
すごい力で「日常」に揺り戻されたような気分だった。
このとき日常を取り戻したような気分もしたが、やはり適切だと思うことばは「揺り戻された」だ。
揺り戻したのはぼく自身ではなく、人の営みだったからだ。
被災地の役に立ちたいという使命感、経済活動を再開させたいという欲求、不謹慎さを拭いたいという真摯さ。
そうした感情に基づくそれぞれの行動。
それが人の営みになって、日常を揺り戻したんだと思うのだ。
公務員という職業を志望したとき、初めに考えたのは「人のための仕事をしたい」ということだった。
でも、仕事についてしばらくして気づくのは、人のそのものの複雑さであり、それが集まって 表れるエネルギーであり、それが継続されることによるパワー。
人の営みが繰り出すパワーだった。
そして、それこそが「日常」なのかなと思う。
日常は尊くてかけがえのないもの。
ただ、あまりにも身近で、その尊さを意識することは少ない。
それでも、日常が人の営みそのものであるなら、日常はぼくの営みそのものであるわけで、結局のところ、ぼくは日常の担い手のひとりなのだ。
日常が平穏なのか慌ただしいのか、エキサイティングなのか退屈なのか、それはぼくらにかかってもいる。
世界や人を変えたいとか、イノベーション起こしたいとか、ワクワクする日々を送りたいとか。
それはまず、自分自身が変わったり、身近な何かを新しくしたり、ワクワクしたりということが必要で、
だからこそ世界が変わるのだと思っている。
日々を大切に。
3月11日に寄せて