朝型ムーンライト

【前回までのあらすじ】

 

 

皆さんこんにちは。

いよいよ金曜更新が板に付いてきました。

 

さて、本題に入る前に、、

「今まで、帰宅してから2:00くらいまで自分の時間を謳歌してたのに、それを5:30〜6:30の1時間にするなんて、全然計算に合わないじゃん」

というご指摘があると思います。

 

ごもっともです。

 

夜更かしダラダラ3時間と早朝1時間とがどう違うのか。

実は、近ごろ、

時間とは量なのか質なのか、

結局時間とは何者なのか

というような問いへの回答を模索しております。

 

今回の取り組みは、その回答にもつながるような。

 

というわけで本題。

この1週間の結果を発表します!

 

6/22 土曜日

前日23:45就寝。

5:30に目覚めるもダラダラとスマホ

6:15起床、洗濯とギター少々。

7:15身支度と朝食。

8:00出勤。

 

朝はせっかくだから脳を使った活動を、と思いギターを志したのでした。

しかし、時を同じくして起きてきた妻の目もあり、つい家事をしてしまう(もちろん正しい)。

夜は23:20帰宅、23:50就寝。

やはり就寝まで30分はかかるようです。

 

6/23 日曜日

なぜか4:45に目が覚めてしまい、まどろみつつスマホでウトウト。

6:20起床。洗濯物たたんだり。

6:40からジョギング、7:25に帰宅してシャワー、朝食をとり8:10出勤。

 

この日は脳を使う気がしなくて、運動へ。気候がよくて気持ちがいい。60分の自由時間のうち、40分ジョグ、20分シャワーという内訳でした。

夜は23:30帰宅、24:15就寝。

 

6/24 月曜日

6時間寝たかったのに、目覚ましが5:00に鳴り響いてしまい。。

5:30起床、スマホでダラダラ、洗濯物干し、ゆっくり洗顔など。

こういうだらつきも、たまにはいいんじゃないかなと。

夜は23:30帰宅。しかしだらついてしまい、25:00就寝。

朝のだらつきがまずかったか?

 

6/25 火曜日

5:30に目覚めるも、やはりだらつく。

6:30起床、一度だらつくと際限ない感じが。どこかで逆転できないだろうか?

夜は早めに帰宅したものの子どもが寝ようとせず…22:30就寝。

 

6/26水

5:30に目覚めるも、やはり略

起床は6:00過ぎ。完全にだらけましたね。

それと、宿直なのを思い出して着替えなどの準備。

夜は宿直室で。仮眠とろうにもソワソワして寝付けず。

 

6/27木

朝はズルズルと6:30に起床。

一応1時間くらい作業できたからいい方かな?身体より脳を使う方が良さそうではある。

この日は保育園のイベントに参加して、早めに帰宅。とにかく眠くて、夜は子どもとともに22:00ごろ就寝。これで睡眠時間十分のはずだが…

 

6/28 金曜日

5:00に鳴りひびく目覚まし。しかし、、起床できず。スイッチをとめて二度寝に入る。

結局、6:15起床。自由時間を二度寝に当てるという体たらく。。

 

というわけで、集計します。

 

朝型できた日数  3日

 一度だらけると、ズルズルだらけてしまいますね。朝の自由時間が、単なるだらけタイムに。

 

ストレス具合

超快調!ではないです。

ただし、少なくとも不調ではない。頭も回る方。金曜にしては意欲もある方。

 

良い効果

気分も意欲も上調子です!

 

悪い効果

特にないけれど、、少し寂しくはあります。

 

肝心の睡眠時間

合計40.5時間。つまり、平均5.6時間。

幅は、4.5時間〜7時間というところ。

 

…5:00に鳴り響く目覚ましが諸悪の根源ではないだろうか。24:00に寝たら5時間しか寝れないし。。

 

【次回予告】

・結局、睡眠不足は解消されたの?

・こんなこと、習慣づけられるのだろうか?

・そもそも習慣とは??

眠られぬ夜のために その2

【前回までのあらすじ】

スマホ依存のぼくは、いよいよ睡眠時間を削ってまでスマホに食い入ってしまっている。

よく眠る効能は自覚しているにもかかわらず、夜更かしが絶えないぼくに未来はあるのか?!

 

 

…というわけで、スマホ依存」という結論が半ば見えてはおりますが、、

「睡眠が短いのに、長く取ろうとしない」という行動の改善に向けて、課題を整理してみます。

 

まずは

①  目指す状態  

  →6時間以上睡眠する

②  与条件  

  →起床時刻は同じ(5:30〜6:30くらい)

③  必要な行動  

  →就寝時刻を早める

 

…当たり前すぎますね。

 

ともかく、

起床時刻を5:30として、6時間前の23:30に睡眠が始まるようにする。

てことは、布団には23:00ごろ入るということになります。

 

さて、仕事のサイクルはどうなっているかというと…

 

夜の仕事(会議など)が終わるのが、概ね20:30。

片付けなどして、寄り道しなければ概ね21:30に帰宅。

 

できるじゃん!

 

って思いました?

ぼくは、「厳しいなあ…」と思いました。

 

着替えて夕食をとるのに30分。

入浴(シャワー)に30分。

歯磨きなど寝支度をするのに30分。

 

えっ、、1日これで終わり??

 

「いやいや民間じゃこうはいかないよ。やっぱり公務員は恵まれてるよ」「子育てしてると30分もご飯食べられないよ。そもそも自分の時間ないんだから」

 

どこかからこんな声が聞こえてきます。

そう、それは分かります。

 

多忙な部署や繁忙期だと、昼もロクに食べられず渉外対応、上司の叱咤&指示、資料を作っては直し作っては直し元に戻る、勤務時間が終わってようやく落ち着いて作業、でも上司がいないからこれで要求を満たせてるか不明、終電の時間だからいろいろ投げ出して帰宅、コンビニで買った120円の酒入り炭酸を歩き飲み、うちに着いたら明日が来るのがイヤで仕方なくなるも気絶、6:00ごろ突如目覚め、まばたきもせずシャワーを浴びて出勤。

 

保育園に迎えに行くと、帰りたくないと泣き、自転車に意地でも乗らず真っ暗な中を走り回り、やっとこさ連れ帰っても家に入りたくないと泣き、夕食はおやつがいいとゴね、気に入らないおかずは投げ、お椀を逆さにしてみそ汁の滝から重力を学ぶ様子を見せられ、風呂から布団まで片時も離れず、ともに寝落ち。

 

ええと何の話でしたか…

 

自分の時間が持てないという辛さについてですね。

帰宅して寝るだけでは、精神的にもたないだろうと思うわけです。

しかし、睡眠時間は確保したい(早く寝たい)。

 

となると…

 

朝、自分の時間を用意してあげるしかない。

具体的には、5:30に起床して、6:30まで。

(だいぶ少ないな…しかしこれが限界か)

 

果たしてこれが可能なのか…

 

やってみるしかない

 

というわけで、

【次回予告】

・朝方生活やってみた

・そもそも可能なのか?効果はあるのか?余計ストレス溜まらないか?

・というか、朝から何するの?

 

という感じで、次回へつづきます

眠られぬ夜のために

10連休明けから何となく調子が悪い、リズムが整わないと思ったら、慢性的な睡眠不足でした。

 

1日の平均睡眠時間は、3〜4時間てところ。

午前2〜3時に寝て、5時半から6時半くらいに起きるような生活。

起きる時間は何となく習慣になっていて、寝坊することはあまりないのです。(朝、タイマーで仕上がった洗濯物を干すというタスクもあるし。)

 

同時に、夜更かしも悪癖になってしまってます。

夜の会議が終わって、地元駅に着くのは21:30くらい。そこから遅い夕食、、というか晩酌をして。。帰宅するのは0:00前くらい。

←これが既に遅いなあ。。

帰宅してから何となく、テレビを観たり録画を観たりYouTubeを観…(略)、気づくと1:30を回っているので慌ててシャワーを浴びて布団へ。

すぐに気絶して、すぐに朝になります。

 

それじゃあさぞ眠くて仕事に支障があるだろうとお察しのアナタ、半分正解です。

眠さで支障があった例は、「自分が発言しない会議」くらいなもので、やるべき事務処理なり打合せなりで凡ミスするということもないんです。

眠気もそんなに感じるわけでなく。

 

ですがね、、

冒頭述べたように、ここのところ何となく調子が悪かったんです。なんか乗らないというか。鈍いというか。

 

で、ある日、よく寝たら調子がよかったわけです。

何しろ判断力のキレが違う。

正か否かはもちろん、視野を広く持てて優先度がつけやすくなりました。

(これはほっといてOK、そっちの案件に注力しよう、みたいな)

 

よって、、当たり前すぎる結論ですが、

よく寝た方がいい。

 

ですがね。。

分かっていてもできないのが人間(ぼく)なのです。

 

早く寝れば、さぞ素晴らしい明日が待っているだろう。

そう思っていても、、「ああ、23:00か。あと1時間遊べるな」「ああ0:00になっちゃった。シメに何の動画観よう?」とかいう思考回路に陥ってしまう。

 

そういうわけで、、「十分に睡眠をとる」というのも、ぼくにとって立派な課題なのです。

自分の中の何かに打ち勝たないと。

これは自分との戦いなのです。

 

次回へつづく…

 

【次回予告】

睡眠を阻んでいる自分の業?とは何か!

文章にすると浮かび上がる弱みと向き合うわたくしに、勝利の日はくるのか?!

 

 

推しが推せるうちに

まずはこちらをご覧ください

俳優の上川隆也氏が所属していた劇団、運営会社が破産へ(帝国データバンク) - Yahoo!ニュース

 

キャラメルボックスといえば、実に、ぼくが初めて真剣にお芝居をみた劇団さんでした。

当時大学生だったかな?

それまでは、中学の授業のなかで「観劇」したくらい。お堅いのを観て、感想文書くというお決まりのパターンでした。

が、キャラメルボックスを観て、エキサイティングかつポップ、ドキドキでキラキラで、舞台ってこんな夢のある世界なんだ!ってえらく感動したもんです。

 

そんなキャラメルボックスさん、活動休止とのこと。率直に寂しいです。

 

とは言え、最後に観に行ったのはもう10年以上前のことです。

 

ぼくの推し麺について

 

今回はとにかくゆるくしようと思ったので、、

推してきたラーメン屋などを綴ってみます。

 

まず、「自家製中華そば べんてん」さん。

最近カップ麺になっていて、驚愕しました。f:id:RyOhara:20190608161211j:image

元々高田馬場にあり、週3〜4回行ったものです。

ひどいときは土曜朝8:00くらいから並び始め、開店直後のサービス品(野菜炒めとか)をゲットするのに執心しておりました、、。

2014年に一度閉店しています。そこから色々あって、復活。現在の店舗となっています。(そのへんのことがテレビでドキュメント番組になっていて、感動しました!)

いまでも、推し中の推しです。

 

ですが、滅多に行かなくなりました。

一時閉店するときも行きませんでした。

理由は、、端的に言うと「暮らしのリズムと合わなくなった」ことですね。

通勤経路・行ける時間帯(仕事のあととか)などの暮らしの導線から外れた場所・営業時間なので。

かなりエネルギーを使わないと行けないのです。

 

ほかには、下落合の「彩」さん。

ここは行けなくはないなあ。。けど、ビールのメニューがなくなったのがなあ。。

 

タイミング合えば行くのは、「高木や」さん。

蒙古タンメンの「中本」さんばりの辛いつけ麺が素敵です。おつまみも充実してて、ビール飲むのが最高です。

とは言え、推し切れているわけではないです。今後の課題です。

 

あと、時々登場する「メルシー」さん。

f:id:RyOhara:20190608162428j:image

これは「べんてん」とは真逆で、暮らしの導線に入りましたので、しっかり推して参りたいと思います。

 

ラーメン屋ではないですが、閉店まで推し切れたお店もありました。

 

推しコンテンツ

 

ラーメン屋ばかりだと、単なるデブアピールなので、中途半端なデブアピールとして、推しコンテンツも挙げときます。

 

音楽だと、サザンオールスターズさん。(さんを付けると何か違和感あります)

ただ今全国ツアー中、もちろん行くのですが、日常的に推し切れていません。やばいです。なんか最近ピンとこないんです。特に、お店とかでかかっているとビミョーな気分になります。なぜ??

 

ローリング・ストーンズ

高校生からハマりにハマって、ライブ映像探しに夢中になりました。

今は公式のDVD すらまともに持っていません。全然推してないよ!

 

ええと、ほかには…

えっ忘れてる…

 

推しは血と肉になっている

このように(笑)

かつてハマりにハマり、推しに推しまくったものたちから、徐々に距離ができ、自然消滅していったものは数知れず。

 

寂しいものですが、必然だったんだろうとは思います。

 

キャラメルボックスもそうですが、行きつけだったお店が閉まるときに、「えー閉まっちゃうのショックー」と嘆くのは、なんだか詰まらないもんです。

推さなくなったってことは、愛が遠ざかったってことだし、受け入れるしかないじゃんと思うんです。

 

でも、寂しいってことは、大切な存在として、ぼくの血となり肉となったのかもしれません。

愛の遠ざかりを受け入れつつ、新たな出会いに感謝しながら、、大切な存在には意識して気を配らないとね

と思ったのでした。

 

皆さんの推しは何ですか?今も推し切れていますか?

 

ゴジラは俺たちの中にいるんだ

ハリウッド版ゴジラ・「ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ」映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公式サイトが公開されましたね!

ゴジラは1954年の公開以来、シリーズ化され人気を博してきました。

ぼくも大好きなこのシリーズの中で最もマニア受けするカオス作が「ゴジラ2000ミレニアムゴジラ 2000 MILLENNIUM : 作品情報 - 映画.com

この愛すべき迷作の珍ゼリフに「ゴジラは俺たちの中にいるんだ…」というのがあります。

このセリフが実に味わい深くて、たまりません笑

 

さておき。

 

別世界同士をつなぐもの

 

前回のブログで、「世界は人の認識の数だけ存在する」という感じなことを書きました。

言い換えると、「世界は無限にあってどれも一致することはない」てなことです。

 

実はこれ、「人はそう簡単に分かり合えないよね」というぼくの考えの、さらに背景にある考えです。

分かり合えてた、理解されていた相手と、ほんの少しのボタンのかけ違いで仲たがいするなんて、これまてよくありました。

相手のことを分かったというより、「分かったつもり」になっていたわけで。

ただ、結局「分かったつもり」にしかなれないし、分かろうと努力し、「分かったつもり」と表明し合うのが相互理解の第一歩なんじゃないの?と思ったりします。

 

「分かろうとする」やり方

 

元々別世界に生きているので、互いの世界を分かろうとするには努力が必要です。

とはいえ、だいたいの場合はさほど面倒なものじゃありません。

同じようなシチュエーションに置かれてたり(職場や学校が一緒とか)、出身地や趣味が一緒だったり、何かしらの共通項があるので。

 

面倒なのは、共通項がない場合です。

これは天気やら当たり障りのない会話をしながら、共通項を探すという手間が必要になります。

まあ、時々ありますし、慣れている方も多いと思います。

 

議論が分かれるのは、理解し得ないような感性の方に出会ったときです。

自分が大事にしているものを蔑ろにしていたり(倹約家の人がギャンブラーと出会ったり)、嫌いなものを好きだったり。

あるいは凶悪犯罪者に対して、そのイカれた思想を理解して共通項を見い出すなんて、おぞましいことこの上ないですよ。

 

分かり合いたくもない相手に対しては、「理解できない」と一刀両断したいものです。

 

ですがね…

 

「理解できない」という呪いの言葉

一刀両断したいんですが、それだと単純に排除して終わるんじゃないかなーと。

排除とは、社会的にも、自分の想像力からも、消しとばしてしまうこと。

「いまそこにある異常」を「あってはならないバグ」「元々なかったもの」として単純に処理してしまう。

自分の認識という私的なモノサシを使って。

 

自分の認識からそのバグを消しとばしたところで、現実には残り続けるわけで。

「いまそこにある異常」を見ないようにしても、自分の世界からなくしたとしても、いつか突然顕在化して、害を及ぼすことがあるのではと思うのです。

「理解できない」と一刀両断したつもりでも、それは世界への呪いの言葉でしかない。 認識をねじ曲げて、やがて世界をねじ曲げる、悪意でしかないんじゃないかと。

 

ゴジラは俺たちの中にいるんだ

このセリフの劇中での文脈はともかく(唐突だからイマイチ文脈はわかりません笑)、凶暴な怪獣が僕たちの中にいると認識するのは、信じたくない異常なものを現実として認識する、つまり、自分の世界に取り込み受け入れることなのではないかなと。

 

理解し合うことは決してできなくても、共生することもできなくてと、存在を認識すること。それを前提に世界を構築し直すこと。

それも人としての営みと思うこの頃です。

無限なる世界

 

リンク先の記事は、「孤独」に関する研究者・ウェイスの唱えた6因子について詳しく説明しています。

ウェイス(Weiss)の6因子で孤独を考える | KAIGO LAB(カイゴラボ)

 

記事の中で気になったのは、

"注意したいのは、いまは困ったことがなくても、いざ、そうしたことに直面した場合、相談できる相手がいたり、相談できる場所があったりすることを認識しているかどうかが大事という部分です。"

"もちろん、これもまた、実際に保証人がいるかどうかという話ではなく、いざとなれば、保証人になってくれる人がいると認識しているかどうかが大事です。"

という部分。

相談する人・場所または頼れる人が「実際いるかどうか」より「いると認識しているかどうか」が、孤独を感じるかどうかの上で大事だとのこと。

極端なことを言えば、「いると認識さえしていれば、安心」ということかもしれません。

 

以上は認識の話ですが、知識にも似たようなことが言えて、「あらかじめ知っていれば安心」ということが多々あります。

たとえば、会合で突然指名され「あいさつをしなさい」と言われると、アタフタして顔面蒼白背中汗だくてなことになりますが、あらかじめ「あいさつを求められますよ」と教えておいてくれれば、まあ準備もできて安心できるとか。

 

そんなわけで、

「自分の置かれている世界がどんな世界なのか」は、結局のところ

「世界で何が起きてるか」

という事実より、

「世界で起きている何かを自分が知って、どう認識するか」

が次第じゃないかなと思ってます。

 

すごくおおざっぱに言うと、「病は気から」というやつです。

「体調が悪い」と認識した瞬間、自分は、「自分が病気になっている世界」に滞在することになります。

ところが、「体調が悪い」という認識がなければ、客観的には病気でも、その人にとっては病気ではない(「自分が病気になっている世界に滞在していない」)ということになります。

 

面倒なのは、認識は人によって異なるという点です。

「おなかが痛い」という場合、同じ痛みでも「すぐ治る」と認識する人と「痛くて何もできない」と認識する人とがいます。

そうすると、同じような事象でも「おなかが痛くてもなんとかなる世界」と「おなかが痛いと何もできない世界」と2種類が存在することに。

さらに面倒なのは、同じ人でも、シチュエーションによって認識を異にすることです。

同じおなかの痛みでも、家でリラックスしているときと、大事なプレゼンが数分後に迫るときでは、まるで認識が異なりますよね?

 

地球の人口をググったところ、2017年時点で75.3億人だそうで、認識のしかただけでもたくさんパターンがあるのに、人間の数でも75.3億ということで、、世界は無限ということですよね。。

 

この無限に広がる世界を、面白がったり興味持ったり、つなげたり理解したり、というのが、ぼくらの日々の営みなんじゃないかなーと思うのです。

言ってみれば、世界も無限、つながりも無限、営みも無限という感じですね!

 

 

眼病のこと

中学から高校にかけて剣道部でした。

特に興味があったわけでなく、親からの強い強い勧めにより、しかたなく入ったというのがほんとのところ。

元来運動神経がなく、練習についていけなかったり、豆をたくさん作ったり、いじめられたりして何度もやめようと思ったものの、例によってズルズル続けてしまいました。

 

高1にもなると、身体もそれなりにデカくなり脂肪は相変わらずながら割と筋肉もついてきまして。

そういえば、高校の性質上?高2が日々の稽古を仕切り、高1は最もキツイ練習を課されてました。

そんな折の合宿。

日々の稽古とは比べものにならない猛練習なわけです。緊張感もすごい。高2の先輩はもちろん、OBも多数参加。

一応体育会系だし武道だしで、それなりにしごかれました。

ただ、高1なので、ぼくもやる気ムキ出し。泣きそうになりながらも精一杯勤めるのでした。

 

そうしたとき、右眼になりやら黒っぽいカーテンのようなものが。

いくら眼を拭ってもとれません。鏡で見ても、何もない。ただ、見え方だけに異常がある。

そうこうしているうちに、黒っぽいカーテンが真っ黒に、右眼視界全てが闇になりました。

 

普通こういうとき、緊急で病院にかかるもんですが、何しろシゴキとやる気ムキ出しの真っ只中だったので。

視界がなくなり、遠近感がなくなって、まともに面打ちが入らなくなって、ようやく「病院行って治したい」と言い出したんだと思います。

 

緊急外来で、ポケベルで呼び出された眼科医から「網膜剥離ですね」と告げられたとき、「知ってる病気じゃん!手術すれば治るじゃん!」とやたら安堵したのを覚えています。

 

ところが、そうはいかず。

結論から言うと、完治はしなかったんですね。

 

よくボクサーの方が「網膜剥離から奇跡の復帰!」とかありますが、あれは思うに、網膜にかすかな穴が空いてしまったくらいだと思うんですよ。

そのくらいなら、レーザーで焼き付ける治療がききます。

しかし、ぼくのように完全に剥がれてしまっていると、「手術により眼球にガスを注入してその圧力で剥がれた網膜を押さえつける」というなんかアナログな治療になりました。

 

で、、、色々色々あって、

3回の手術、4ヶ月の入院の後、右眼は光「だけ」戻りました。

そのうち詳しく書きますが、右眼はまともに像を映せず、矯正しても視力は出ません。

 

そういうわけで何が言いたいかというと、

・どこ見てるか分からないと言われますが、一応真っ直ぐ見ているつもりです。右眼は自分でもコントロールきかないのです。

・右側は完全に死角です。右隣に座った方、愛想悪くてすみません。見えてないのです。

・キャッチボールできません。何かを投げてよこして、捕れないの見て唖然とされ、軽く傷ついてます。遠近感ないんです。

・愛想悪いですが、見えてない場合がほとんどです。あと疲れているか、めんどくさいか。気分が顔に出てしまう損な性格です。

 

つれづれですみません。。

眼のことはまだまだあるので、そのうちまた書きます。

それでは!