ゴジラは俺たちの中にいるんだ

ハリウッド版ゴジラ・「ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ」映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公式サイトが公開されましたね!

ゴジラは1954年の公開以来、シリーズ化され人気を博してきました。

ぼくも大好きなこのシリーズの中で最もマニア受けするカオス作が「ゴジラ2000ミレニアムゴジラ 2000 MILLENNIUM : 作品情報 - 映画.com

この愛すべき迷作の珍ゼリフに「ゴジラは俺たちの中にいるんだ…」というのがあります。

このセリフが実に味わい深くて、たまりません笑

 

さておき。

 

別世界同士をつなぐもの

 

前回のブログで、「世界は人の認識の数だけ存在する」という感じなことを書きました。

言い換えると、「世界は無限にあってどれも一致することはない」てなことです。

 

実はこれ、「人はそう簡単に分かり合えないよね」というぼくの考えの、さらに背景にある考えです。

分かり合えてた、理解されていた相手と、ほんの少しのボタンのかけ違いで仲たがいするなんて、これまてよくありました。

相手のことを分かったというより、「分かったつもり」になっていたわけで。

ただ、結局「分かったつもり」にしかなれないし、分かろうと努力し、「分かったつもり」と表明し合うのが相互理解の第一歩なんじゃないの?と思ったりします。

 

「分かろうとする」やり方

 

元々別世界に生きているので、互いの世界を分かろうとするには努力が必要です。

とはいえ、だいたいの場合はさほど面倒なものじゃありません。

同じようなシチュエーションに置かれてたり(職場や学校が一緒とか)、出身地や趣味が一緒だったり、何かしらの共通項があるので。

 

面倒なのは、共通項がない場合です。

これは天気やら当たり障りのない会話をしながら、共通項を探すという手間が必要になります。

まあ、時々ありますし、慣れている方も多いと思います。

 

議論が分かれるのは、理解し得ないような感性の方に出会ったときです。

自分が大事にしているものを蔑ろにしていたり(倹約家の人がギャンブラーと出会ったり)、嫌いなものを好きだったり。

あるいは凶悪犯罪者に対して、そのイカれた思想を理解して共通項を見い出すなんて、おぞましいことこの上ないですよ。

 

分かり合いたくもない相手に対しては、「理解できない」と一刀両断したいものです。

 

ですがね…

 

「理解できない」という呪いの言葉

一刀両断したいんですが、それだと単純に排除して終わるんじゃないかなーと。

排除とは、社会的にも、自分の想像力からも、消しとばしてしまうこと。

「いまそこにある異常」を「あってはならないバグ」「元々なかったもの」として単純に処理してしまう。

自分の認識という私的なモノサシを使って。

 

自分の認識からそのバグを消しとばしたところで、現実には残り続けるわけで。

「いまそこにある異常」を見ないようにしても、自分の世界からなくしたとしても、いつか突然顕在化して、害を及ぼすことがあるのではと思うのです。

「理解できない」と一刀両断したつもりでも、それは世界への呪いの言葉でしかない。 認識をねじ曲げて、やがて世界をねじ曲げる、悪意でしかないんじゃないかと。

 

ゴジラは俺たちの中にいるんだ

このセリフの劇中での文脈はともかく(唐突だからイマイチ文脈はわかりません笑)、凶暴な怪獣が僕たちの中にいると認識するのは、信じたくない異常なものを現実として認識する、つまり、自分の世界に取り込み受け入れることなのではないかなと。

 

理解し合うことは決してできなくても、共生することもできなくてと、存在を認識すること。それを前提に世界を構築し直すこと。

それも人としての営みと思うこの頃です。