無限なる世界

 

リンク先の記事は、「孤独」に関する研究者・ウェイスの唱えた6因子について詳しく説明しています。

ウェイス(Weiss)の6因子で孤独を考える | KAIGO LAB(カイゴラボ)

 

記事の中で気になったのは、

"注意したいのは、いまは困ったことがなくても、いざ、そうしたことに直面した場合、相談できる相手がいたり、相談できる場所があったりすることを認識しているかどうかが大事という部分です。"

"もちろん、これもまた、実際に保証人がいるかどうかという話ではなく、いざとなれば、保証人になってくれる人がいると認識しているかどうかが大事です。"

という部分。

相談する人・場所または頼れる人が「実際いるかどうか」より「いると認識しているかどうか」が、孤独を感じるかどうかの上で大事だとのこと。

極端なことを言えば、「いると認識さえしていれば、安心」ということかもしれません。

 

以上は認識の話ですが、知識にも似たようなことが言えて、「あらかじめ知っていれば安心」ということが多々あります。

たとえば、会合で突然指名され「あいさつをしなさい」と言われると、アタフタして顔面蒼白背中汗だくてなことになりますが、あらかじめ「あいさつを求められますよ」と教えておいてくれれば、まあ準備もできて安心できるとか。

 

そんなわけで、

「自分の置かれている世界がどんな世界なのか」は、結局のところ

「世界で何が起きてるか」

という事実より、

「世界で起きている何かを自分が知って、どう認識するか」

が次第じゃないかなと思ってます。

 

すごくおおざっぱに言うと、「病は気から」というやつです。

「体調が悪い」と認識した瞬間、自分は、「自分が病気になっている世界」に滞在することになります。

ところが、「体調が悪い」という認識がなければ、客観的には病気でも、その人にとっては病気ではない(「自分が病気になっている世界に滞在していない」)ということになります。

 

面倒なのは、認識は人によって異なるという点です。

「おなかが痛い」という場合、同じ痛みでも「すぐ治る」と認識する人と「痛くて何もできない」と認識する人とがいます。

そうすると、同じような事象でも「おなかが痛くてもなんとかなる世界」と「おなかが痛いと何もできない世界」と2種類が存在することに。

さらに面倒なのは、同じ人でも、シチュエーションによって認識を異にすることです。

同じおなかの痛みでも、家でリラックスしているときと、大事なプレゼンが数分後に迫るときでは、まるで認識が異なりますよね?

 

地球の人口をググったところ、2017年時点で75.3億人だそうで、認識のしかただけでもたくさんパターンがあるのに、人間の数でも75.3億ということで、、世界は無限ということですよね。。

 

この無限に広がる世界を、面白がったり興味持ったり、つなげたり理解したり、というのが、ぼくらの日々の営みなんじゃないかなーと思うのです。

言ってみれば、世界も無限、つながりも無限、営みも無限という感じですね!